被害者と「加害者」が対話をするロードムービー風のドキュメンタリー。
前代未聞の設定の映画が注目を浴びている。
オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたのが1995年。
この映画の監督 さかはらあつし氏は不幸にもサリン入り袋が置かれた電車車両に当時乗り合わせた被害者だ。
監督は長年の身体的後遺症やPTSDに苦しみながら、いつしか加害者側の宗教団体と向き合うことを決意する。
監督といろんな地を訪れ対話を重ねるのはアレフ広報部長の荒木浩氏。
荒木氏と言えば1998年に制作された森達也監督のドキュメンタリー映画『A』にも当時のオウム真理教の広報副部長として出演していた。
あれから20年以上の時を経て、カメラは荒木氏の現在の信仰、教祖への想い、事件に対するスタンスに鋭く迫っていく。
映画『A』において森達也監督が事件との関係では第三者であるドキュメンタリー作家という立場から荒木氏に迫ったのとは構造的・根本的に話が違う。
本作の監督であり、荒木氏と同行し絶えず一緒にカメラに映るさかはら氏は第三者ではなく事件の当事者(被害者)なのだ。
その意味において、本作はドキュメンタリー映画としての客観性を当初から放棄していると言えるかもしれない。
いやむしろ、事件の被害者が冷静であろうと努めながらも当然に被害感情を捨てきれないところにこそ、客観的真実が映し出されていると言えるのだろうか。
相容れない立場でありながら、さかはら監督と荒木氏は偶然にもどちらも京都大学出身という共通点がある。
事件や信仰とは関係のないたわいのない会話をしながらも、徐々に話が核心に迫っていき、事件から20年以上が経過した「荒木浩」という人間の今を炙り出していく。
その合図もない会話の急展開や映像の推移からは目が離せない。
観客は、被害者が加害者側(正確にはその教祖・幹部がテロ事件の加害者であった宗教団体かつその後続団体の中心人物)を頭ごなしに断罪するのではなく、率直な疑問や思いを丹念にぶつけていく様子を目にすることになる。
そして荒木氏は言葉を選びながらもそれに理性をもって答えようとする。
2人のいろんなやり取りの中に、おそらくは圧倒的多数に及ぶ、事件との関係では「第三者」である観客は、共感、疑問、違和感、嫌悪感、寂寥感、怒り、安堵、悲哀といった様々な感覚・感情を覚えるだろう。
事件報道だけでは感じることのできない感覚や感情を本作が観客に届けてくれること。
これこそまさに本作が制作された意義であり対話型のドキュメンタリー映画としての醍醐味だ。
本作を観終わった観客は、地下鉄サリン事件から、なおも続く信仰の存在から、少なくとも「これまでのような第三者」ではいられなくなるだろう。
『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』
■監督:さかはらあつし
■プロデューサー:阪原淳、松尾悦子、陳穗珠
■製作・配給:Good People
■出演:荒木浩、阪原武司、阪原多嘉子、さかはらあつし
© 2020 Good People Inc.