写真家石川梵が監督した1本のドキュメンタリー作品が静かな熱狂を巻き起こしている。
舞台となる場所は、監督が自ら長年通い続けたインドネシアのラマレラ村。
火山岩からなる土地ゆえに作物の育たないこの村で、400年もの長きにわたり綿々と引き継がれてきた伝統的クジラ漁。
その驚くべき猟の実態と村人の文化・生活を、内部から見事にカメラが映し出す。
自分は実はTV番組「クレイジージャーニー」で石川監督によるラマレラ村の映像が放送された回を観たことがあり、その比較的短時間の映像でもこちらの想像を超える情報に新鮮な驚きを覚えたことを記憶している。
もっとも、今回の映画化作品は確実にその上をいくものだった。
まず猟の一部始終を映したシーンがこれまで見たこともないような迫力だ。
ドローンを使用したクジラ猟の空撮は圧巻の一言であり、クジラの水中での様子も伝えたいとの監督の強い想いにより実現した水中撮影の映像は、文字どおり命がけの猟の緊迫感を余すところなく届けてくれる。
もっとも、この映画の魅力は実際の猟のシーンが持つ迫力だけではない。
生きるためにクジラ猟に頼るほかない土地に生まれついた村民たちが、数百年前から続く先祖の伝統を今も受け継ぎ、手作りの船で、手作りの1本の銛で、クジラに立ち向かい、その命を奪って糧としているその純然たる「生きるための行為」。
この映画は、その行為を正面から捉えることによって、命が命を奪って生きていくことについての根源的な感動をもたらしてくれる。
例えば、外食、あるいはコンビニやスーパーでの買い物に頼った食生活を送るほとんどの現代人たちは、生きるために食べることに関して、命を直に奪う感触を肌で感じるという経験はまずないだろう。
食肉に関して言えば、屠場で殺され加工処理された末に食べる直前の状態で届けられているため、これはある意味当然のことだ。
他方で、この映画で描かれるのはそんな他者を介在させた予定調和のシステムではない。
映画が映し出すのは、いつクジラが獲れるか分からない中で、「年間10頭のクジラが獲れれば村民が皆生きていける」との互助の精神の下に、自らの命を賭して海へ漕ぎ出す人間の姿だ。
殺すことと、食べること、生きることがまさに直結していて、その全過程をまるごと村が引き受けているのだ。
村民はクジラを殺し、そのクジラに感謝しながら先祖代々生きてきた。
私たちに関して言えば、飼ってるペットに対して感謝の念を覚えることはあるかもしれないが、「殺した命に感謝する」ことは果たしてどれほどあるだろう。
自然界の中で、例えばサバンナで狩りを行う動物を追ったドキュメンタリー見て命についての感動を覚えた経験はあっても、まさか人間で同じような感動を覚えることがあるとは思ってもいなかったので、自分はこの映画から大きな衝撃を受けた。
村人の生活について知った後に、銛打ち(ラマファ)が小舟から一本の銛とともに深い海を雄大に泳ぐ巨大なクジラ目がけて飛ぶ姿を見ると、神聖さすら感じてしまう。
猟の花形でもあるラマファに対する村人たちの尊敬の念や、猟で命を亡くした人に対する弔いの方法、獲れたクジラの肉のその後の分配方法。
その全てが現代社会の生活システムに浸かり切った私たちの心と頭を揺さぶるだろう。
既に貿易や分業があまりに進んでしまった現代社会において、人間本来の姿はどうあるべきかついては多分に議論の余地があるかもしれない。
ただ、この映画が見事に捉えた、地球の自然と折り合いをつけた生命の有り様は、ひたすらに純粋で美しい。
この映画が問答無用にもたらす凄烈な感動の渦に包まれながら、一つの生き物として確かにそう感じた。
©Bon Ishikawa