差別主義者の白人女性たちの救いようのない暴走を描いた衝撃的なスリラー映画が公開中だ。
この映画は、一切自省することなく自制も効かないままエスカレートしていく彼女たちの赤裸々な姿を見せ物のようにただただ晒し続ける。
彼女たちが差別や偏見を心の内に増幅させるに至った経緯はそこまで深くは描かれていないため、観る者としては彼女たちに共感や同情を覚える余地はほとんどない。
代わりに全編を支配するのは眉をひそめるほどの圧倒的な不快感だ。
冒頭に感じる違和感が不快感に変わるまであまり時間はかからず、そこからは右肩上がりに不快指数は増加の一途を辿っていく。
その意味で、この衝撃作は確信犯的に観客の頭ではなく心に訴えかけることを狙っている。
ストーリー中の一定量の不快感は、それがスパイスの妙味となって、映画を刺激的なエンタメ作品にする効果を発揮することがある。
他方でずっと不快なだけの映画なんて誰も観たくはない。
カレーだって辛いだけじゃなく、辛くて美味しいから人気の食べ物としての地位を確立させているのだ。
ただこの映画は、料理で言えば、調理の過程でスパイスを少しだけ加えたような代物ではない。
例えるなら唐辛子をメインの食材にして大胆に調理したようなぶっ飛んだ一皿だ。
なのに何故こんなにも面白く、驚異的な没入感が得られるのか。
キューブリックの名作『時計じかけのオレンジ』でも不快極まるシーンは多いが、名匠が確信犯的に仕掛けた画角、色合い、BGM、ディストピアな世界観などが映画にアート性を与え、ラストの展開も含め、観る者にはどこか心の行き場が用意されていた。
問答無用の不条理殺人劇であるミヒャエル・ハネケ監督作『ファニーゲーム』はまさに不快指数マックスだが、舞台が夏の休暇の別荘地という少し非日常的な場所だったほか、犯人たちのキャラクターと行動がサイコパスすぎてどこか人間離れしてたので、どこか観る者も心が崩壊するのを免れたような気がする。
しかし、この映画はアート性やサイコパス性とは無縁だ。
舞台は、アメリカ、都市ではないどこかの郊外の町。
そもそも映画は全編ワンショット90分でリアルタイムに進行していくので、観客はエスカレートしていく地獄絵巻から逃れる術がない。
おまけにこの町の雰囲気がやけに日常感たっぷりで不快感にじめっとした湿度を加える。
差別主義者の女性たちはそれぞれに個性があり、キャラが立っていて、実在しそくな生々しさが付きまとう。
実在しそうな田舎町で実在しそうな女性たちが、炎上必至の白人至上主義グループを作って、愚痴や不満を持ち寄る。
そうして怒りを過激な思想に昇華させては、大人にしてはあまりに稚拙な盛り上がり方を見せていく。
その一挙手一投足、一喜一憂の全てが本当に鳥肌モノに気持ち悪くてゾッとする。
それはまるで現代のSNSで偏った暴言を吐き散らかしている不特定多数人の日常を覗き見るようなリアルさがある。
こうして観る者は、映画全編を覆い続ける湿気のある不快感を、アート性やサイコパス性によって他人事として片付けることはできず、決定的な目撃者・追跡者の立場に終始立たされ続ける。
このリアルな臨場感こそまさにこの映画の強みであり、面白さと没入感の源であり、そしてそれは監督の勇気ある挑戦の賜物でもある。
この挑戦的な作品の制作総指揮を務めたのが『ゲット・アウト』のジェイソン・ブラムと聞いてもそこまで驚かない。
しかし、この完成度の高い作品が、オリジナル脚本・監督を務めたベス・デ・アラウージョの長編デビュー作だという事実には驚いた。
アラウージョ監督は、「このテーマを選んだのは、観客から安心を奪うことも目的としており、観客には、彼女たちに立ち向かうと同時に自分自身と向き合う機会を持ってほしかった」と語る。
確かにこの映画を観ると、絶えず湧き上がる圧倒的な不快感から少し遅れる形で、日常が揺らぎ始めるような不安感をじわじわと感じることだろう。
劇薬のような映画が観る者の心に残した不安感が種となり、そこからどのような芽が出て育っていくのか。
他方で、劇中の彼女たちは別の不安感という種からとんでもないモノを心の内に育ててしまった。
心根という言葉もあるが、自分の内にどんな心を育てて根を広げさせていくかは、きっと良くも悪くも全て自分次第なのだろう。
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