メキシコからとんでもない映画がやってきた。
海外の映画祭でも賛否を呼んだこの問題作、観る人を選ぶというか、監督の言葉を借りれば、「観る人の覚悟」が確実に試される衝撃作だ。
映画は、見るからに裕福な家庭に生まれた花嫁の結婚パーティーの場面からスタートする。
結婚式から始まる映画はその後が劇的に面白くなる、と個人的な経験から思っている節があるのだが、やがて物語は緊張感を孕みながらそんな予想すら遥かに超えてとんでもない方向へ進んでいく。
そこで描かれるのは、メキシコで広がり続ける社会的・経済格差の成れの果てであり、目を背けたくなるような、そして言葉を失うような地獄そのものだ。
貧しさに怒りの声を上げる暴徒たちの勢いが個人の意思というよりは何か大きな一つのうねりのような形でとどまることを知らないように、物語自体も有無を言わさずに冷徹に進んでいく。
ゾンビや特定の犯罪組織が人々を恐怖のどん底に陥れるのではなく、そこにあるのは押しとどめることがおよそ不可能な社会秩序の崩壊だ。
どうしておけばよかったのか、貧しい人に救いの手を差し伸べておけばよかったのか、選挙できちんと政治に向き合っていれば防げたのか、もう何を考えても手遅れなほどに加速度的に進んでいく地獄絵巻の様は、どこか近未来の世界の雰囲気を感じさせる。
実際、監督は『時計じかけのオレンジ』の全くSFでないけれど近未来を描いた世界を再現しようとしたらしい。
ただ、かのキューブリックの名作よりも恐ろしいと感じてしまったのは、おそらくこの映画の世界の方が確実に現代社会と地続きであるという感覚を覚えるからだろう。
アフリカ、中東、香港等、社会秩序の崩壊で市民の生命や自由がいとも容易く危険に晒される例は世界中で散見されるが、この映画は「あなたの国だけ例外だと思っていますか?」とでも言いたげな、いわば劇薬のような衝撃度を備えているのだ。
自然の災害はいったん置くとすれば、結局、人が一番怖い。
人が人をまとめ、あるいは分断させ、成り立たせている社会制度や社会秩序。
それらに内在する不平等さゆえにそれらの安定が揺らいでついに臨界点に達した時、その場に居合わせるあらゆる立場の人々には一体何ができるのか。
そして何をしてしまうのか。
メキシコ映画界を牽引するミシェル・フランコ監督は、ハナから生ぬるい綺麗事を言うつもりは一切ない。
監督自身、この映画を「警告」であると言い切っている。
身も心も硬直してしまうようなストーリーを目に焼き付けた後、果たしてあなたはそこから何を得るだろう。
その意味において、覚悟だけでなく、知的な想像力も同時に試される映画と言えるかもしれない。
(C) 2020 Lo que algunos soñaron S.A. de C.V., Les Films d’Ici