ポーランドのアカデミー賞最多部門に輝きアカデミー賞国際長編映画賞にもノミネートされた話題作が公開中だ。
その物語は実際に起きた出来事に基づく。
少年院を仮釈放された主人公はその犯罪歴ゆえに聖職者にはなれない。
しかし少年院でキリスト教の信仰に目覚めた彼は、ある村で司祭と誤解されたことを契機に、自身を司祭と偽り、救いを求める村人たちと交流を深めていく。
相反する言葉を組み合わせた映画のタイトルが示すとおり、この映画には相対する価値観が評価を加えられずに両方ともしっかりと描かれている。
それは善と悪、また真実と虚偽だ。
どちらの立場が人を真に救うのか、映画自体はあえて決定的な意味での回答を避け、観る者に対し教訓がましい描写を一切提供しない。
物語は、ただ起きる出来事として主人公に事実を経験させるだけだ。
あたかも人々が理由も分からない不条理な悲劇を経験することとパラレルであるかのように。
それは神が決定した事項であるとすれば何とも恣意的に感じてしまう。
物語を全体として見た時に、この世界の神は、またはこの映画の作り手は、誰に寄り添っているのか、いないのかすら分からなくなるようなある種の不安感を覚える。
ただ一方でこの不安感はいたって現実生活での感覚と合致するようにも感じた。
ご都合主義の映画では予定調和の安心感が得られるけれど、本来的にはこの世界の日常は不安の連続だ。
正直者が徳をするとは限らないし、悪気のない嘘が他人を救うこともある。
無神論者はそもそもこの世界に客観的な救いがあるなどと思ってないことが多いだろうし、神論者ですら耐えられない程の不条理な悲劇の当事者になれば信仰を疑うことだってあるかもしれない。
この映画は、信仰自体の価値や尊さすらからも焦点を離して、俯瞰的に善と悪、真実と虚偽を見つめ、それらの要素全てに答えを出さずに絶妙に取り入れることに成功している。
そんな作品はそうそうお目にかかれない気がするが1つ思い出したのは、笑福亭鶴瓶演じるニセ医者が長年にわたり患者の診療に当たる『ディア・ドクター』という邦画だ。
この映画も真実と善意の価値観を揺さぶってくる点で本作と共通している気がした。
本作、主演のバルトシュ・ビィエレニアの演技がとにかく素晴らしい。
絶対的な救いとは本当に1つなのか、観ているうちに分からなくなりながらも、主人公の何かを信じ切って見開かれた目、何かに諦めて納得して遠くを見つめるような目、いろんな場面でのその眼差しが脳裏に焼きついて離れなかった。
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